立松和平を読んでいた。愛した知床の自然がページを繰る度に映画のように飛びこむ。
昨日今日と「おかわり」いただいた「さか屋」のコンサート。お盆シリーズは今夜でオシマイです。次週からは通常の。連夜のお客様ありがとうございました。 いただいた意見には「毎日忙しく音楽を聴くところから遠くにいました。今夜はほんとうにゆっくりできました。」などとウレシイ言葉をいただき。
で、準備しながら(特に準備らしいものはないんだけれど)ミヤネ屋を見ると、映画「シャンハイ」の宣伝。 は~。こんなモン作ってるんだ、アメリカ。 え?これセットでっか!んなことはどうでもよく、実にウマイところ・ヒトの弱みを突いてくる。こりゃ、見にいかなければイカンと思わせるナニカが潜んでいる映画であります。 何日かまえの邦画のクサイこと。2%くらいしか見てないけれど、最初から見ようという気の起こらないそれは、この映画となにが違うのだろう。まずは、キャストだな。それから「本」だ。映画は生かすも殺すも、キャストと本にかかっているわけで。 スポンサーの好意に依りかかるものと、興行収支の予測に基づいて作るものと、採算度外視するものと、当たるもあたらぬも八卦のものと、製作物にはそれぞれの事情がある。また、製作費とは関係なく、よいものそうでないものとがある。 見る見ないの選択は個人によるもので、製作費とは関係ないが、やはり、時間と金をかけたもののほうに軍配があがることが多いような気がする。そういうものを見た記憶が多い。
所詮映画だ。劇だ。でもほんとうに映画だ。だから、会場に1800円支払い、それに見合う感動が欲しい。おおきなスクリーンで、良い音で。だから選ぶ。全部を見られない。悲劇・喜劇・ドキュメント・ノンフィクション・サスペンス・パニック。ジャンルは問わない。おもしろかった、という感動が欲しい。なぜ、その金額にこだわるかといえば、簡単なことだ。映画館で見ようと思わなければ、すこし待てばTVやインターネットで無料で見られるからだ。お金の価値はそういうところにある。
ややこしいハナシではなく、食事や音楽などはその典型だ。不要のひとには不要のもの。対価を払ってこころが納得するものを得る。あたりまえのことだから、送り手側に立った時には、「お金を取れるか?」そいうことを忘れずに展開しなくては、と思う。
毎日の暑さ、あと少し?もうすぐ秋になります。すこし雲の多い天城にこれから。音楽を大切に思ってくれる宿に敬意を払い、わざわざ階下に降りてくださるお客様に感謝し、今夜も花のような☆のようなピアノ弾いてきま~す。(女の子みたいな口調で)オシマイ