ミュージシャンであること。
間違うことがある。それはそれ(ん~と、そりゃぁ、間違っちゃいけないよね。)。ボクが大切に思っていることは、生の演奏を届けること。再現すること。だれかの音楽を伝えること。だと思っている。かつてTVの生放送に接していた頃は、楽器ひとつでもバンドでも、生で演奏し、歌手は生でうたっていた。音響調整士の技術如何では違ったサウンドになったことは否めないが、あくまで生を届けていた。だからみんなが真剣勝負だ。狭いスタジオでコマーシャルの1分の間にセット替えをし、楽器類の調整をする。音楽の専門番組では、比較的長いじかんをかけて音響類の調整をし、場面場面で撮ることもあるし、ノベタンでの撮りっぱなしもある。しかし、昨今の音楽番組はアメリカに倣ってカラオケが多くなった。(演歌・歌謡曲歌手がカラオケで地方に行くのとはハナシがちがうよ。)または口パク。マイナスワンカラオケを用いることもある。そう、だから、「嘘」の音楽をやっている。歌そのものを聴きたいぶんにはそれでじゅうぶんだし、そえなりに伝わるものだろうが、それは「金」をもらっていることにはならないんじゃないかなと思う。ジャニ〇〇のコンサートだってカラオケだし、外タレだってカラオケの場合がある。それらは興行的にはもんだいなく音楽だろうけれど、音楽的にはウソじゃないか。極端に言うとクラシックのソロピアノコンサートをカラオケで聴きますか?ってこと。シンガーは生で歌いミュージシャンは生で演奏してお金もらうものだと思うのです。
と、と、と、
じつはこんな音のことを書こうと思っていたわけではなくて、「画(え)」のことを書こうとおもっていたんだ。 最近メズラシク「Mステ〇〇○○」の画面を見た。ほかのいくつかの音楽番組も見た。 唖然としたのは絵だ。 演奏される楽曲の内容はこの際無視して。なぜなんだろう?あのカメラワーク(っていうのかな?)。 2小節ごとにあっちこっちのカメラに切り替わっていく。テレもワイドも上下左右5,6台のカメラが目まぐるしく切り替わっていく。 聴きたい歌詞も歌手の表情もバンドの行動も照明や舞台装置もみんな半端になっていく。 伝わるはずの歌詞だって伝わらない気がする。(ま、照明や舞台装置は金かけてるだけでセンスゼロだけれど、と、いうより下品) 昨日ボブジェイムズと松田聖子のコンサートの上品なVTR見ただけに、これらの番組の絵が、余計に下品だということを実感したわけですが。
中州産業大学の教授のタモリ氏はあんなに素晴らしいアルバムを作っていたセンスあふれる人なのに、この番組の司会をしながらこの絵を撮られて、なにも感じないのだろうか。それとも、「俺は金だけ貰っていりゃ、べつに他はなんでもいいよ」とでも思っているんだろうか。それとも若いディレクターにあきれて黙っているんだろうか。絵は音楽よりもまず直感的に脳に刺激を与える。さあ、って時になんじゃかんじゃぐちゃぐちゃ掻きまわされたら、味わいなどどこかに跳んでってしまう。
音楽も画(え)もひとそれぞれの好みだから強要などしません。だからこそ選択の余地を残して欲しい。これだったらああしてほしいな、とか、ああならこうなりゃいいな、とか。 それがこんな絵を見せられては、感想を思う前に「めんどくさっ。」「アホらしっ」と、なる。ボクはミュージシャンとしてメディアに中継されることがあれば、こういうような画(え)と一緒には、電波に乗せていただきたくない、ということです。ついでに、もうこの番組は見ない。
などと言ってるうちにことしもあとすこしで終わります。あしたはおせち(おせち代わりかなあ)っていうのかなあ、おかずの注文予約がはいっているので、2時間ほど猫や調理のおじさんです。じゃ、こんやもこれから天城「さか屋」にて夜の音楽会。綺麗な音の渦を巻けますように行ってきます。