時間の長短、おバカの浅深。
一週間がとても長いのに、一か月はあっという間で。不思議だなと思う。考えてみれば、ウン十年なんてあっという間だった。最近面白いのは、今までは会う人が必然だったことが多かったのに、猫やを開けてからは偶然が増えたということだ。こちらからは会う人を限定しないという意味からだ。年齢も職業もさまざまだ。もちろん音楽をしているときは、不特定多数との接点があるが、そこには「音楽」という必然が介在する。猫やに於ける必然は「食事」だけれど、接点は偶然だ。
新聞では偶然起きた自然の出来事を不祥事のように扱う政治家や、税金を自分の金だと勘違いしている輩が紙面を賑わせる。一般的に不透明な核や「有」尽蔵にある資源を無闇に製造し、または、威嚇をもって他国から金を引き出そうとする輩もいつものことだ。「国」が存在してゆくための算段は、ぼくらの手からは遠いところにあるけれど、その算段が良いか悪いかは、なんとなくわかる。いや、なんとなく教えられてきた。理(ことわり)ということだ。その理が存在を脅かされるようでは、「国」は信頼に値しなくなる。日本のみならず、小学生でも判断出来る分かり易く透明な政治がどうして出来ないのだろう。リーダーがあり続けることがどうして出来ないのだろう。マスコミに於ける評論や解説をするエライ方々が、そのマスコミに迎合したのでは、評論ではなく宣伝ですぞ。え~、迎撃ミサイル一発八億円ですか?たかーっ。
などと、今夜もボケ50代は、ボケ書きを続けるのであります。